志賀理和氣神社
(通称 赤石神社)
由緒
延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地を領した累代領主の厚い尊崇を受けた。
天正年間(1573-1592)南部氏がこの地を領すると殊のほか崇敬の誠を捧げ、第三十三代利視公は「御社はとまれかくまれ志賀理和気我が十郡の国のみをさき」の和歌を献じ、社殿を造営するなど深く敬仰した。
さらには近江商人、井筒屋など豪商も霊験あらたかな神として篤く信仰した。境内に方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社である。
神社紹介スライドショー
「赤石」の由来
 天正(1573-1591)の昔、郡下六 十六郷の領主斯波孫三郎詮直公が北上川で遊 覧の折 川底に赤石の大石を見て紫色の水波 に漂ようその美しさに感有って一首を詠じた という。 けふよりは   紫波と名づけん この川の  石にうつ波 紫に似て  この地方はこれまで子波、斯波、斯和、又は志和 と地名の変遷をみているが、以来「紫波」と改ま り当社もまた通称赤石大明神赤石神社・赤石 さんと親しまれ今日に至った。  詮直公によって引き揚げられた「赤石」は爾来 御本殿の後方に奉安され、霊妙あらたかなる 霊石として崇拝されて来た。  昭和59年11月当社御創建壱千百八 拾年記念事業で現地に奉遷されたものである。

「南面の桜」の伝説
境内入口に古木の桜がある。
元弘のころ、当地に下った藤原頼之と、河東の領主川村少将の娘・桃香は、相思相愛となり、ここに桜を植えて、爛漫の春を夢見ていた。しかし、命により、頼之は都へ上ることになり、二人は再会を固く誓って分かれた。やがて、植えた桜は見事に咲いたが、不思議にも、すべて花は南を向いて開いていた。桃香の心が、桜に宿ったものとされている。 境内入口に「南面の桜」がある。元弘のころ、当地に下った藤原頼之と、河東の領主川村少将の娘・桃香は、相思相愛となり、ここに桜を植えて、爛漫の春を夢見ていた。しかし、命により、頼之は都へ上ることになり、二人は再会を固く誓って分かれた。やがて、植えた桜は見事に咲いたが、不思議にも、すべて花は南を向いて開いていた。桃香の心が、桜に宿ったものとされている。


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